武陽ラガークラブ−兵庫県立兵庫高等学校ラグビー部OB会

武陽ラガークラブは、兵庫県立兵庫高等学校(兵庫高校)ラグビー部OB会の名称です。武陽ラガークラブ公式ホームページでは、会員の交流と現役選手達を支援するための活動を行っています。

武陽ラガークラブについて

 「武陽ラガークラブ」は神戸二中(兵庫県立第二神戸中学校)・兵庫高校(兵庫県立兵庫高等学校)のラグビー部のOB会で、会員相互の親睦を図り、現役の発展強化に努めることを目的としている。現在、約600名の会員を擁している。

 神戸二中は、明治41年(1908年)に設立された。戦後の昭和24年に新体制に切り替わり兵庫高校となり、平成20年(2008年)に100周年を迎えた。

 ラグビー部は昭和4年に創部された。

 昭和初期の激しい移り変わり、満州事変に始まる戦時体制下を経て終戦、著しい経済成長、オイルショック、阪神大震災等変遷めまぐるしいなか、ラグビー部は脈々と伝統を受け継いできた。

創部のころ

 昭和3年秋、神戸二中の校庭に「ラガー・イズ・ジェントルマン」ついで「礼に始まり礼に終わる」「アタック・イズ・ザ・ベスト・ディフェンス」「運動場は教室の延長である」「5分前集合」と流暢な英語を交えた言葉が流れる。上野校長宮川教頭以下、運動部関係の先生たち、運動部の生徒たちを前に、ユニフォーム姿の脇肇(1陽会・慶大出)沢田健一(4陽会・東大出)が、ラグビーボールを手にしながらラグビーを解説しているのだ。英国でのラグビーの発祥から、パス、キック、スクラムの基本動作など、巧みな話術に実技披露を交え、出席者を虜にしてしまった。ついに頑固で有名な校長に「こんなに礼儀正しい紳士のスポーツは、我が校にふさわしい」と言わしめてしまった。

 神戸では大正の初期より、外国人たちが東遊園地でいち早くラグビーをプレーしていた。二中の一部の生徒たちは、ラグビーに興味を持ち、何とか取り組もうとしていた。その中の國領武一郎・弓削古通(共に17陽会)が赴任されたばかりの小川重吉先生(6陽会)に、ラグビー部創部を申し出た。そこで前述のデモンストレーションとなったわけである。

 それから小川先生をはじめとした部員勧誘が始まった。

テニス部の寺岡(18陽会)、水泳部の●田(18陽会)、外海(18陽会)、堀川(22陽会)、野球部の山田(18陽会)、野崎(22陽会)など他の運動部の部員を強引に引き抜いたため、各部の先生や生徒たちに大いに恨まれたとか・・・。

 そして昭和4年、神戸二中ラグビー部は小川先生を部長に正式にスタートした。

 練習は基本を中心に進められた。脇は週に2・3回、まだ大学生だった飼手・小村(ともに12陽会)も度々来校し、スパルタ式の指導を行った。昭和6年から京大の名プレーヤーだった松井正雄が、東大時代の清瀬三郎(7陽会)目良篤(9陽会)の要請を受けてコーチに赴任、練習も軌道に乗りチームも着々と実力をつけていった。昭和7年には脇の郷里である淡路島・志筑で夏合宿を行った。以後二中の夏合宿は毎年志筑で行われ、昭和20年代まで続いた。

 小川先生は二中に11年間勤められた。この間ラグビーにかけられた情熱は凄まじいものだった。練習では拳骨を絶えず振るう厳しさだったが、グランドを離れると兄貴のようで、親身になって部員の相談に乗り、勉強のできない生徒は自宅に呼んで勉強を教えるほどの慈愛に満ちた先生だった。

黄金時代

 昭和7年度(創部4年目)堀川栄喜(22陽会)主将のとき、全国大会(第15回)に初めて出場することができた。

以後昭和8年度・9年度・12年度・14年度・16年度・17年度に出場(昭和18・19年度は戦争のため大会中止)。11年間に7回出場を果たした。

(戦績)

昭和7年度 準決勝 3−24 ●城師範(朝鮮代表:優勝)に敗退
昭和8年度 準決勝 8−11 秋田工(東北代表:優勝)に敗退
昭和9年度 1回戦 5−19 鞍山中(満州代表:優勝)に敗退
昭和12年度 準決勝 0−12 養正高普(朝鮮代表:準優勝)に敗退
昭和14年度 1回戦 6−34 撫順中(満州代表:優勝)に敗退
昭和16年度 準決勝 0−3 ●野中(大阪代表:優勝)に敗退
昭和17年度 準決勝 6−12 天王寺中(大阪代表:優勝)に敗退

 この時代は、満州・朝鮮・台湾のチームが強く、内地チームにとって一つの壁であった。昭和4年度〜昭和15年度が外地チームがフル出場した年代だが、外地チームがその12年間に何と8回も優勝している。神戸二中はクジ運もあったのか?よく外地チームに当たって苦杯をなめている。

 戦前に「明治神宮大会」と称する全国大会があった。各種スポーツが全国一を競う大会で、今の国民体育大会の前身といわれる。戦時中のことで、各地区で予選が行われ、秋に東京で東西対抗戦の形で決勝戦が行われていた。
昭和12年度に神戸二中は西日本代表となり10月30日、明治神宮外苑球技場(現国立競技場)で東日本代表の保善商業を27−3で下し、全国優勝の夢を果たした。

 この間、大学に進学した武陽ラガーたちは東西の大学で活躍。名選手を輩出した。

(主な選手)

明治大 鍋加弘之(22陽会)、加島保雄(22陽会)、堀川栄喜(22陽会)、野崎直見(22陽会)
早稲田大 遠藤公(25陽会)、白崎恵一(28陽会)
慶応大 大江保正(23陽会)、吉原禎之(23陽会)、伊藤保太郎(26陽会)、大谷秀長(26陽会)、大塚潔(26陽会)、田中二郎(26陽会)、吉川嘉俊(27陽会)、新●淑郎(27陽会)
同志社大 榎本英彦(22陽会)
関学大 西島好男(21陽会)